安藤誠明くんを推すarchのしがないblog

顔面最強!?安藤誠明くんと、安藤くんが所属するORβITの応援ブログ☆ゆるりと楽しく記事かいてます!

推しは推せるときに推せ!に対して思うこと

今回は最初は少しORβITから離れた話になると思います。悲しい表現も出てきますが、もし苦手な話題でしたらそっと閉じることをおすすめします。


皆さんは聞いたことありますか?
『推しは推せるときに推せ』
私はこの言葉、すごくすごく苦手になりました。
それはとても理解が出来るからこそ、苦手なのだと思うのです。

この言葉は、対象が2次元だろうが3次元だろうが2.5次元だろうが、相手が身近な存在だろうが、関係なくあるゆるオタク界隈で言われてきてる言葉だと思うので知ってる人は多いと思います。
言葉の通り、
自分が推している(応援している特別な)人は、その対象者(自分が推している人)を推すことが出来る環境にいる間に推せ!ってことですよね。そのままの意味ですもん。むしろ説明しようとする方がわかりにくくなりましたよね。
わかりやすいからこそ、広く使われるオタク界でのことわざみたいなものになってるのだと思います。

私が苦手だと感じたのは、その言葉を見るだけで胸が押し潰されそうになることに気付いたからです。
そうです、推しを推せなくなった経験があるのです。
もちろん、自分の気持ちとは別ですよ。物理的に推せなくなったのです。
きっと中には同じ経験をした人がいるかもしれません。

私の場合は自分のオタク界隈がアイドルなので、少しそちらに寄ったお話になります。
好きなグループから推しが卒業した。脱退した。グループ自体が解散した。というパターン
ただ、これらは場合によってはグループではなくソロになったり、他のグループに所属すれば推し活動は継続できることもあります。
芸能界を引退した。というパターン
近年の傾向では、一般人でもFCを発足する人も増えています。SNSで様子を報告してくれたりする人もいたりするので、芸能界ということにこだわらなければ一般人であろうが推し続けることもできます。
誰かと熱愛が発覚した。結婚した。妊娠した。などのパターン。
こちらも自分の気持ちさえ整うのであれば、推すこと自体は可能です。
もちろんどれも、そんな状況は嫌だと思えば推せなくなりますし、グループにいる推しが好きだったならそれまでだと思います。
そうやってあげてみると、こういったことに関しては結構の人が経験あるのではないでしょうか。
私も推し!!とまではいかなくとも、応援してた好きなグループなどで、上で書きあげたパターンは沢山経験してきました。
その時は、正直悲しいけど全部『推しは推せるときに推せ』ってことなんだなと思ってきました。(熱愛、結婚、妊娠とかに関しては私は正直推せなくなるとかではないタイプの人間なので経験はないですが、、、)
そうです、その言葉で片付けてきたのです。そして時が過ぎれば受け入れて忘れていくと、、、


数年前、私が現時点での人生で一番追いかけた韓国のアイドル(私のなかでは一人のアーティストでもありました。)がこの世を去りました。鬱病による自殺でした。
元々、不眠症であったことや、とても繊細な心の持ち主だったことなどはファンだったのでもちろん知ってましたが、鬱ということは知りませんでした。
私が見る限りは元気で楽しそうで、少しもそんな様子を私達には見せてこなかったので。見えてなかっただけなのかもしれないけれど。話し出せば長くなるので、ここらへんは割愛しますね。語りきれないですし。

その日は突然やってきました。
友達とお店で夜ご飯を食べ、時間確認のために二人でTwitterを開いたときでした。トレンドに私の推しの名前が存在していたのです。
「何かあったのかな?(もちろん良い意味で)」「SNS更新とかした?」「カムバ?(韓国のアイドルでは、活動をはじめることをカムバックといっており、カムバックしてる間をカムバ期間などといったりします。)」とにかくトレンドにあがるということは沢山の人が呟いていて関心を持っていることだから、嬉しく思ってました。(もちろん炎上してたり、悪いときもあったりはしますけど)
しかし、トレンドの推しの名前を押してみて初めて知ったのです。自殺を図り、意識不明の状態であると。
一緒にいた友達もほぼ同じタイミングで気付き声をかけてきました。もちろん私が推していることを知ってるので。
私は最初、嘘だと思ってたので、というよりも信じられなかったので笑ってました。「うそうそ、ガセだよ!」「信じらんない!死んだりしないから大丈夫だよ~」とにかく本当によくわからなかったんです。そのまま時間も時間だったので解散となり、電車で帰宅しました。そこから怒涛の検索をして、電車内で初めてそれが真実に近いことを知り涙が止まりませんでした。満員の電車で調べなきゃいいのに、調べるのをやめることもできず、泣きながら検索して、生きていてと願いました。
願いは届かなくて、事務所から死去の知らせがきたときは呆然としました。一瞬にして世界が真っ暗になったのです。
私は翌日、複数人の友達と夢の国へ行くために休みをあわせてとっていました。ほぼ眠れないまま、随分前からの約束だからと、そのまま時間通りむかいました。全員昨夜の出来事を知っているので、無理しなくて良いよとは言われてはいたけど、推し活動とプライベートの友達は別だし、社会人としてもドタキャンはありえない、、、と思って必死こいてむかいました。結果的に全く記憶がありません。早めに夢の国から外にでて食事してから帰ろう(いつものパターン)となったのですが、席も人数的にあかなくて(奇数人数)1人いなければすぐ入れるとのことだったので「私、先に帰るね!皆たのしんでくれ~」と言い残して帰りました。
正直、推し活動とは別のことだからと、遊びに行った自分の判断は良かったのか今となれば微妙です。約束は守ったけど心は完全に失われていたし、今でも全然記憶ないから昔話をされてもついていけない日が誕生しました(もちろん、皆には言いましたよ。正直あの日は全く記憶もなくて、心からは楽しめなかったのでまた一緒にいってね、ごめんね。と)それならば行かない方がマシだったのでは、と思いながらも1人でそっと耐えるよりはマシだったのかもしれないとも思いましたね。

そこからの日々は、毎日が記憶喪失。新しい事実や出来事がわかれば涙して、昔のことを想ってはまた涙して。他に好きなグループのライブへ行ったときも心は晴れず。ボーッとしすぎて車に轢かれそうになったときはさすがに目が覚めましたけど(ま、そこから普通になったわけでは全くなく、気を付けようと改めただけですが)
家族からは普通に外に出掛けてるだけなのに、帰りが遅くなると「帰ってこないけど、変なこと考えてたりしないかな」とか思われてたらしいです。家族ももちろん私の推しのことは知ってますし、なんならずっと生活している姿を見てるのですごく心配だったようです。
出来事から2ヶ月弱で、その推しグループのライブがありました。追悼のような演出もあったし同じ境遇であるオタク仲間と話したり、一緒にいつもオタク活動してくれている友達とご飯を食べたりして少し受け入れたあたりから、やっと記憶喪失から脱することができましたね。あくまで記憶喪失期間が終了しただけです。(仕事でのうっかりミスは増えませんでした。ただその期間に、過去の間にやらかしていたミスが発覚したりと、全体的に気運が下降気味で人生終了モードになってたのは否めません。)

長くなりましたが、私はこの最中に
『推しは推せるときに推せ』という文字をみました。
ヘドがでるほど無理でした。
まるでそれが、正解かのように見えたのです。
突然やってきたお別れ。
「何が、推しは推せるときに推せだよ。推してたわ!十分推してた。後悔ないくらい推してた。でも、もう推せないよ?あなたの推しはこの世界にいないから、推せないよ?って私に言いたいのか」と。
過去は私のなかで悔いがないくらいは推せてました。だけど、この先の未来で新しい姿の推しをリアルタイムで推せない事実を突きつけられた気がしたのです。(それに関しては紛れもない事実ではあるのですが、他者から突きつけられるのと自分で受け入れるのとでは俄然受け止め方が違います)
それからと言うもの、色々なアイドルの卒業などで嘆く人をみかけては複雑な気持ちになりました。生きているだけマシではないかと思ったこともあったけれど、それとこれは別だとすぐに気付いて反省して言葉を飲み込んだのです。皆、自分のなかでの推し活動は違っていて嘆く人がいるのは当たり前。
ただ、私の中で唯一変わらず存在した違和感が、そのどんな時でも現れ出てくる『推しは推せるときに推せ』という言葉でした。
苦手という感情は次第に核心的なものになりました。

結論から言うと、私は今でも天国にいる推しを推しています。所属するグループごと今でも応援してます。
新しい姿の推しはもう見ることは出来ないので、端から見たら推せてないと思うかもしれないけど
私のマインドでは、推しを推しているのです。もちろん以前に比べたら新しいことはほぼ皆無なので、自分の推し活動自体はゆるやかですけど、それが自分のこの推しグループとの関わり具合としてうまい塩梅だなーと感じてるのでいいのです。
だから『推しは推せるときに推せ』は
意味はすごく理解できるけど、体感的には全く理解できません。というより理解したくないのです。
推しは自分次第でいくらでも推せると思うから。
それは、推すという概念が人と変わったということなのかなとも思いますね。

ただ、それから
二度と特別な推しは作らないと決めて過ごしてきたのは事実です。推し活動は幸せだったけど、このお別れが相当しんどかった出来事であることは変わりないので。
でも、私はそこで安藤誠明くんに出会い今こうして推しています。色々考えることがあってすぐには受け入れられなかった自分の気持ちも、天国にいる推しが結果的には私に受け入れさせてくれました。
そして、あの魔の日プに浸かり、再び世間的には推しを推せなくなるぞ!という一歩手前まできてしまうのですがね、、、そして今に至ります。(今はORβITとして戻ってきてくれたので世間的にも推せていると思われる状況になってますがね)

私はみなさんに投げ掛けたい。
『推しは推せるときに推せ』
という言葉に捕らわれすぎてませんか?
私は、そんなの世間一般での推し活動の概念にすぎないから
その言葉に何かを動かされる必要はないと思います。
簡単にいえば、「これが正解なら、自分は不正解だ」とか色々考えすぎて、私は落ち込まなくていいところでさえ落ち込んでいたのです。
私はこの言葉のせいで、必要以上に踊らされたということです。

結局、私は私のまま
『推しを推すだけ』だ。




あとがき
今回、これを書くかはとても悩みました。
書くきっかけは、最近この言葉をたまたまTwitterで見かけたからです。
この言葉をモットーに推し活動する人を批判してるわけでも、理解できないわけでもないです。この言葉が広く伝わっていった経緯は、オタクの経験からと言われています。ただ、私は自分のオタク経験から得たことが、今までの自分のこの言葉に対する考えと一致しなくなったと気付いて違和感から苦手になっただけです。
もし、この言葉に捕らわれすぎて、自分の推し活動に支障がでてる人がいるならリセットできたらいいなと考えて記事にしてみました。
もちろん、対象者を追い込むような推し活動は断じて許されないと思っております。
この言葉に、うんうん。そうだぞ!!と皆が賛同する必要はないなと思うだけです。
皆さんが、自分のペースで好きなように推し活動ができることを願っています。


↓ランキング参加中です。ポチッとお願いします↓
にほんブログ村 にほんブログ村へ